はじめに
意外と知られていないかもしれませんが、日本の女子学生を象徴するシンボル「セーラー服」はもともと1900年頃に主にドイツで導入されていた男児用の制服でした。更にその原型は欧米海軍の軍服です。セーラー服の「Sailor」とは「船乗り」を意味する単語なのです。さて、今回はこのセーラー服史についてご紹介しましょう。
初導入
日本の学校に初めてセーラー服が導入されたのは1920年(大正9年)だと言われています。場所はモダンガールが闊歩していた前衛的な東京かと思いきや、その真逆の雰囲気がある伝統と文化が息づく「京都」です。同地の平安女学院が「着物・ちょうちん袴」という制服を「濃色ワンピース・セーラー衿シャツ」に変更をしました。このスタイルが人気を博し、金城学院(愛知)・福岡女学院(福岡)・フェリス女学院(東京)といったお嬢様学校が次々に導入をしていきました。
その理由
セーラー服がなぜ導入の対象となり得たのか。その理由は「女子の体格向上と健康増進の為に制服の改造論が交わされていた」から。当時、教育界では近代体操を導入する事が決まっていましたが、伝統的な和服はその動作に呼応しないものでした。そうして「上下セパレート方式」かつ「清楚で上品なイメージのある」洋服が求められた結果、セーラー服に白羽の矢が当たったのです。
戦中戦後
しかし、セーラー服は受難の時期を迎えます。日中戦争に端を発した世界的戦争への参加は次第に日本の一般的生活を圧迫させ、それに伴い制服も至って簡素な「セーラー風の上着ともんぺ」というスタイルになります。戦争が終わった直後も逼迫した生活環境は変わらず「制服」そのものの調達が難しい有様でしたが、1947年(昭和22年)頃から再び教育界でセーラー制服採用論が再燃。次々に各学校がセーラー服を導入していきました。これはセーラー服の高尚でクリーンなイメージと復興機運が重なった結果としての現象です。
文化と共に
次第に制服姿の女子学生は若者文化を代表するシンボルとなり始めます。昭和期の硬派・社会派の時代には「くるぶしで小さく丸め込んだソックス・履きつぶした靴・長大なスカート」のスケ番スタイルが、平和と安寧の平成初期に入ると英国風の落ち着いた淑女スタイルが、文化的躍進と倫理崩壊の見られた平成中期に入ると着崩したルーズスタイルが、飽和と迷走を始めた平和後期に入るとスタイルの無いスタイルが(つまり統一性のない学校個別のスタイル)が、それぞれ主流となります。
まとめ
こうしてセーラー服は現在に至るというわけです。そろそろ日本は平成後期の迷走時代が終わりを告げます。次に日本はどのような社会気風を築くのか、そしてそれに応じてセーラー服を含めた学生服がどのように変化するのか。文化服飾の歴史には興味深い社会性が内在するのです。
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